本地区は、目黒区の北部に位置し、玉川通り(国道246号線)と山手通り (環状6号線) 支線及び目黒川に囲まれた約3.8haの区域である。JR渋谷駅から南西方に約1.5km、東急田園都市線の池尻大橋駅より徒歩5分程度のところ。
開発以前は、幹線道路沿いにスーパーマーケットが一軒のほか近隣商店とマンションが建ち並び、目黒川沿いなどには戸建て住宅や中低層アパートが散在。かつて玉電の大橋車庫だった東急バス車庫用地が区域の大半を占めていた。
[図1]
当地区は、武蔵野台地の河川流域部で周辺に比べ低地となっており、大気が滞留しやすい地形である。加えて、玉川通りや山手通りが交差し、上空を首都高3号線が走るなど自動車交通の要衝にあり、以前 から都内有数の環境悪化地点とされている。
歴史を紐解いてみると、「大橋」という地名は、「新編武蔵風土記稿」によれば、江戸時代の文化年間頃に目黒川に架けられた幅2.7m、長さ12.7mの土橋に由来する。昭和44年の住居表示実施の際、住民要望で町名が正式に決定されたという。
地区を走る幹線道路の玉川通りは、かつて大山街道と呼ばれた。江戸時代には、相模国大山の阿夫利(雨降)神社への参詣者や相模川の鮎を魚河岸に急送する「鮎かつぎ」も見られる人の往来の場であった。
明治40年には軌道線(東急玉川線)が開通し、戦後しばらく片側1車線の併用軌道で、広く玉電の愛称で利用された。
その後、自動車交通量の増大に伴い昭和44年に廃止。玉電は地下化し、玉電の旧軌道部分を利用し、上空に首都高速3号線が建設された。首都高ができる前は富士山も見えたというが、ちょうどこの頃を境に地域の様相が一変してしまった。
地区の東側には、山手通りの支線が走る。南側には、景観資源の一つである目黒川が流れている。昭和30年頃まで友禅流しが行われ、付近には染物屋もあった。川沿いに目黒駅付近までの約3.8kmにわたり約830本の桜が植えられ、開花時は、多くの花見客で賑わう名所である。[写真2]
目黒川は、玉川上水より分岐した鳥山川、北沢川にその源を発する。目黒区、品川区を貫流し、途中、中目黒付近にて支川の蛇崩川を合せ、東京湾に注ぐ延長約8kmの河川。東京西北部の住宅地を東に流れ、世田谷区池尻4丁目地先にて二つの河川は合流し、名称を目黒川と変える。
昭和37年に鳥山川及び北沢川は暗渠化され、地上は世田谷区の緑道として整備されている。大橋から下流部は開渠となっている。ここを流れる水は、清流復活事業により、新宿区落合水再生センターで高度処理した下水を導いている。[写真3]
川には幾つもの小さな橋があり、国道246号に『大橋』が、川を下る方向に『常盤橋』、『万代橋』、『氷川橋』『東山橋』が架けられ、風情ある景観を宿している。[写真4]