まちづくりの契機(谷中が谷中でなくなる)

Vol 8.2 寺町・谷中 都会の隠れ里、雑誌でまちづくり ―地域価値を発掘、世間の支持を得て修復・保存―

Vol8.1 山の手・代官山

 

Vol 8.2 寺町・谷中 都会の隠れ里、雑誌でまちづくり 
―地域価値を発掘、世間の支持を得て修復・保存―

東京藝術大学美術学部建築科 講師 河村 茂 氏 博士(工学)

 
9.30 UPDATE

まちづくりの契機(谷中が谷中でなくなる)

 近代化の波から取り残された感のある、この谷中のまちも経済の高度成長期の終わり頃からバブル期にかけ、幹線道路沿いなどで地上げが見られるようになり、まちの景色が変わりかけていた。これに気づいた人たちが危機感をもち、ようやくこの地のまちづくりが始まる。ただし、この地のまちづくりは再開発型のものではなく、修復・保存型のまちづくりである。

  この修復・保存型のまちづくりは、実は容易ではない。なぜなら何をどのように守り維持していくのか、その守るべき対象、価値を皆が共有しなくてはならないからである。つまり皆がこれがこの地の魅力・価値だと捉え、これを維持するべく地域合意する必要がある。そこでこの地の人達が、まずとった行動は地域再発見、ディスカバー谷中であった。この地固有の価値や魅力を調べ上げ、これを地域の人達に、そして世間に物語ることからまちづくりは始まった。

  この地の価値にいち早く気がついたのは、実は地元の区長であった。少し前に戻るが、彼の呼びかけで1981年、「江戸のあるまち会」が結成され、皆でこの地の良さを知ろうと勉強が始まった。それは、「このままでは谷中が谷中でなくなってしまう」という危機意識があったからである。そうしてまちの歴史や伝統、地域特性などについて学び始めた。この動きの中に菊まつりのイベントや地域雑誌・『谷中・根津・千駄木』(以下、単に「谷根千」という。)の発行がある。これは生活の場で見つけた大切なものを拾い上げ、世の中に紹介することで、近代化に乗り遅れた「抹香くさい、寺と墓のある気持ちの悪いまち」を、「江戸以来の歴史が堆積し、下町の人情を残す、歴史や文化のあるまち」へとイメージ転換していく、その手立てとしての雑誌づくりであった。

  こうして地域文化の掘り起こしが始まった。失われていく谷中の風景に今日的価値を見いだしそれを皆に世間に訴えかけ、共感や支持を獲得し残していく、そんなまちづくりの展開である。

  この少し前の1970年代は、実はディスカバージャパンの時代であった。経済の高度成長に伴う都市開発により大きく変質する国土、今のうちに古き良き日本の風景を目に焼き付けておこうと、所得水準の向上もあり全国的に日本再発見の旅が広まった。そして小京都ブームとなり、アンノン族が雑誌を小脇に抱え全国の町や村へと散らばっていった。これに続く1980-1990年代は、もっと生活に身近な所を再発見しようと、江戸ブーム、下町ブームが起こった。そうした動きの中で谷中にも多くの人々の目が向いた。谷中は、幸いなことに、この江戸と下町の両方の要素をもつていた。これまでこの地で暮らす人々は、必ずしも胸を張り誇りをもって暮らしてきたとはいえなかった、どちらかといえばどこか小さくなって生活してきた。

  そんな人達に地域イメージのプラス転換を図り、自信を与えたのは雑誌・谷根千である。江戸から続く歴史と文化のあるまち、また下町の人情を残すまちとして、この地のもつ価値や他のまちにはない魅力を、メディアとしての雑誌を介し外部に遡及していった。次第に世間の評価を得るようになり、この地にも訪問客がやってきて谷中のまちのファンが増えていくと、この地に暮らす人達もわが町に自信をもつように変わり、自らのまちを誇るようになっていった。

 この地域再発見に大きく寄与したのは、トヨタ財団の助成を受け2年半の歳月をかけ行われた「上野桜木・谷中・根津・千駄木の親しまれる環境調査(86~88年)」である。この調査は地元の東京芸術大学が事務局となり、大学院の学生と地域の人達との共同研究として実施された。この調査に参加した人達は、ここで地域のお宝を発見するだけでなく、その副産物として人的ネットワークを形成するようになった。この調査をやってみてわかったことだが、地域に関しての知識ということなら、この地に暮らす人々の方が、専門家よりよっぽど多くのことを知っていた。そうしてこの調査によって地域に埋もれた宝物を、沢山発見することもできた。しかし、これをどうやって維持・活用したらいいのか、その手立てが地域の人達にはないこともわかった。あぶり出された地域の魅力や価値に世間の評価を加え磨き上げるには、建築やまちづくり、また文化財の修復や保存などに関する、専門家の力が必要なことを痛感した。

  「谷中学校」は、そうした経緯をふまえ、1989年に芸大や東大の大学院生また地域の有志が協力して生まれた、地域アドバイザーとしての専門家集団である。谷中学校は、①まちを知る(発見)②まちに(あり方などを)提案する、③まちとつながる(色々な人や組織とネットワークを組む)をモットーに、町会などの要請を受け専門家としての活動を展開していった。実績を紹介すると、谷中小学校前のポケットパーク、初音交番、また谷中墓地の塀の整備などがある。また、明治期の町屋・旧吉田屋酒店の移築保存にも成功(1987年)、また同じく明治の町屋・蒲生家(谷中学校の活動拠点として活用)と大正期の伊勢五酒店は、現地にて保存・再生されている。

地域アドバイザー・谷中学校の試金石

  そうこうしていると、地元の専門家集団として活躍する谷中学校に対し、その真価が問われる事件が起こる。三崎坂のマンション建設問題である(1998年)。ある時、低層の寺院や住宅等が連なる坂の中程に9階建てのマンション計画(ライオンズガーデン谷中三崎坂(高さ27.8m 9階建て49戸))が持ち上がる。

  まちの人達は、この計画をこのままにしておくと、やがては地域全体に中高層の建築物の建築が進み、「谷中が谷中でなくなってしまう」と危機感を募らせた。そして地元町会や下谷仏教会が中心になって建設に反対していくことになった。こうした地元の動きに谷中学校のメンバーは、「計画中止ではなく見直しを」ということで、地域の専門家として参画し代案をまとめるなどして、地元の人達と事業者との間の交渉を支援していった。幸い事業主の住宅デベロッパーが「地域共生によるまちづくり」を進めていた時期にあたり、事前協議を進めていくと、なんとか折り合い双方が納得する形で計画が見直された。

 即ち、販売面積の減少は最小限に抑え(全戸数は43戸。)、前面の道路に面した部分は4階建、それより後退した部分は6階建へと変更された。外壁の色についても話し合って、この地に馴染むものにしてもらった。結果、このマンション建設は地元の人達が8割方入居することで納まった。地元住民も寺院関係者も、この経験をふまえ保全型のまちづくりには、相当なエネルギーが必要なことを知った。そして本件を契機に谷中では町会や仏教会、商店街など既存の組織をまたぐ格好で、「まちづくり協議会」が組織される。ここで谷中学校のメンバーは地元・台東区が派遣するまちづくり相談員として、この事務局を担うことになり実働部隊として行動していく。また、これを受けて三崎坂については、建築協定(道路境界から5mまでは階数を4とし(高さ14m)、それ以上は6階以下(高さ18.5m)とする。)がオーソライズされる。

  実は、ここに至るには下地があった。少し前になるが、谷中には地元区長の発案で14の町会をまたぎ、地区を横断する形でコミュニティ委員会が組織されていた(1978年)。また、その活動を支える場としてコミュニティセンター(老人館、保育所、社会教育館、図書館の4館が併合された複合型施設)も同じ頃、整備されていた。

  谷中学校の方も、このマンション建設運動を契機に、修復・保存型のまちづくりを実践的に進めていくため、新たに「たいとう歴史都市研究会(NOP)」を設立、ここで家屋の保存再生、借り上げ、リユースなどの事業を手掛けることになった。