代官山、このまちは渋谷台地の南西端に位置しており、目黒川から段丘状に土地がせりあがり下の谷とは高低差20mほどある台地の尾根に旧山の手通りが走り、これを軸に崖線に沿うように緑豊かな住宅地が広がっている。住居表示でいうと、渋谷区と目黒区の区境に位置し、通りの南側には著名人が多数住む青葉台、北側は元首相のお屋敷がある南平台、そして鉢山、猿楽の各町がこれに連なり、通りを挟むようにデンマーク、エジプト、セネガル、マレーシア、フィリッピンなどの各大使館が立地している。まちは敷地規模も大きく低中層の建築物が連なり緑豊かな環境を形成、落ち着いた上品な雰囲気を醸している。
この地は江戸時代は長いこと近郊農村で、所々に武家屋敷が点在するそんな地であった。明治に入ると官僚・軍人・資産家などの屋敷街へと変わり、関東大震災の後は、震災復興の一環として、東急東横線・代官山駅の北側に、当時の最新設備(水洗トイレやダストシュートなど)を備えた、同潤会代官山アパートが建設され、芸能人や芸術家、教育者など多くの文化人が入居した。戦後になると1955年に東急代官山アパートができ、その斬新さから有名人や外国人などが居を構えた。
このように代官山の地には、大きなお屋敷や時代の先端をいく団地・アパートが連なり、落ち着いた街並みを形成してきた。現在はヒルサイドテラスが代官山のまちの軸となり、その周りにブティックやカフェ、レストランなど気の利いた店舗が並び、大人の文化が薫る素敵なまちとして、上質なライフスタイルを現出している。
しかし、ここ代官山のまちは、銀座や青山、原宿のような商業地とはならず、「魅力的な暮らしの場」としてのアイデンティティ(場所のもつ固有性)を維持しながら、これにふさわしい景観や環境また施設の整備が進められてきている。このまちの価値は誰もが認めるように、ヒルサイドテラスの優れた都市デザイン力による、素敵な街並み・環境形成にある。槇は、この地の場所のもつ価値(台地の縁辺部に位置した段丘状の地形とお屋敷街(大敷地)としての緑多い環境特性)を活かすべく、ヒルサイドテラスの開発に近代的なアーバンデザインの手法を持ち込むとともに、通りを軸とした日本の伝統的なまちづくり手法とを調和させ、他に例を見ない高感度な居心地の良い都会の風景(素敵な雰囲気)を創り出していった。
それでは代官山のステキなまちづくりのDNAとなっている、ヒルサイドテラスの開発について紹介する。
ヒルサイドテラスとは、この地の尾根部にあたる旧山手通り沿いに展開する、住宅を中心とした13の建物からなる、高感度なショップやカフェ&レストラン、アートギャラリーなどを含む施設群のことである。1969年に、その第一期(A、B棟)が建築家・槇文彦の設計により誕生して以来、この地から西へ数100m離れた所にある、ヒルサイドウエストの完成まで約30年の歳月を要した。ヒルサイドテラスは今や代官山のシンボル的存在で、周辺環境を巧みに活かした豊かな空間構成は、訪れる人々を心地よくしてくれる。
この地には1969~1998年にかけ、第一期から第七期まで平均して3~4年おきに、まち並みを形成するかの如く、順次、建築物群が建ち並んでいった。この一連のプロジェクトにおいて、朝倉家(朝倉不動産)は地主として、またデベロッパーとしてプロジェクトを主導、また槇は建築家・都市デザイナーとしての役割を果たしていった。両者が力をあわせ連携・協働し、時代の変化を見極めながら、生活イメージを都市環境整備に絡ませ具体に展開していった。
槇は都市デザインにあたり、この地の場所がもつ固有な価値をしっかりとらえ、近未来における都市の変化を見通し、まちの魅力や不動産としての資産価値を高めるべく取り組んだ。
第一期A・B棟の建築は、通りに面した店舗と事務所の上部に住宅を配す空間構成とし、外部には欅を配置しコーナー広場を形成、またパティオ風のサンクンガーデン、そしてペデストリアンデッキといった、都市環境形成のツールを用い、きめ細かく巧みに空間構成していった。第二期のC棟では、プラザを囲むように店舗群を配し、その上部にテラスやルーフガーデンをもつ住宅を置いた。第三期D棟は稲荷塚を囲む配置とし、E棟はそのまた奧に斜面と対峙させる形で住居群を配した。第五期のヒルサイドプラザでは、地上部の駐車場の地下にホールを設けた。また、第六期のF・G・H棟は、これまでとは異なり旧山手通の反対側に位置し、不整形な広場を正面に配し、その背後の道路とをつないで通り抜けできるようにしている。なお、第四期は南側の道路を挟んでアネックスA・B棟が配置されている。