首都東京の都心地域に相応しく、日本橋は長い時間をかけて多様な機能を集積させ、奥行き深い相貌を見せる。
ここではいくつかの分野に関して来し方を振り返り、歴史的蓄積が日本橋の都市づくりに如何に活かされているか、探ってみよう。
江戸が政治的中心となり多数の武家が集中すると、そのサービス機能を担う商人や職人、更には彼らの活動と生活を支えるための流通、金融、娯楽等の機能も必要になった。こうした諸機能立地の受け皿とすべく、家康は日本橋の架橋と前後して、町人地の大規模造成にも着手した。その最初の町割りが今の日本橋本町で、この近辺から京橋~銀座~新橋と続く東海道が江戸の代表的な賑わい軸となった。
○ 老舗集団
江戸以前~明治期の日本橋地区にルーツを持ち、所在地や事業形態は変化しても今に続く老舗は多い。その一部を創業または日本橋進出の年代順に例示すると、
伊場仙(団扇・扇子/1590)、
小津和紙(1653)、神茂(ハンペン/1688)、山本山(茶/1690)、にんべん(鰹節/1699)、
さるや(楊枝/1704)、国分(商社/1712)、江戸屋(刷毛・ブラシ/1718)、
玉ひで(軍鶏鍋/1760)、うぶけや(刃物/1783)、木屋(刃物/1792)、
鶴屋吉信(菓子/1803)、はいばら(和紙/1806)、千疋屋(果物/1834)、
山本海苔店(1849)、栄太楼(菓子/1857)、とよだ(割烹/1863)、丸善(書店・文具/1869)、
高島屋(百貨店/1831、日本橋店は1933)…
等、今も著名な企業や専門店が多数含まれている。中で食品や工芸用品・道具のSPA(製造小売業態)が少なくないことに注目したい。当地区の事業家たちが、交易だけでなく、伝統的なものづくり、更には町人文化の振興にも深く関わっていた歴史が伺われる。
○ 大規模小売店舗
大店(おおだな)の中で、白木屋(1662年・日本橋通)、越後屋(1673・本町)、大丸屋(1743・大伝馬町)は、それぞれに独自のサービスを凝らし、後に江戸三大呉服店と称されるほどに発展した。上記、屋号の後のカッコ内は、いずれも最初の出店年とその当時の町名を示すが、それぞれ移転と業容変更を繰り返しながら、後に東京の代表的百貨店となった。三者は順に、東急日本橋店(1999年閉店、2004年コレド日本橋として再生)、三越日本橋本店(現本館1935年竣工)、大丸東京店の前身である。
更に以下2点、日本橋地区を特徴付ける都市機能集積と、その基になった歴史的事象群を例示しておく。
○ 国際金融センター:銀行・証券会社等の集積、本町・兜町等・・・金座の役所開設(1596年・本石町)、
第一国立銀行開業(1873・兜町)、株式取引所の設立(1878・同、後の証券取引所)、
日本銀行の開設(1882・箱崎町)と金座跡への移転(1896)、等
○ 興行・アミューズメント地区:芝居小屋・芝居茶屋・関連サービス業の集積、人形町・浜町等・・・
江戸歌舞伎の村山座開場(1634年・人形町)、中村座移転開場(1651・同)、
喜昇座開場(1873・久松町)→明治座に改称(1893)・移転(1923・浜町)
日本橋地区は常に繁栄し続けたわけでなく、少なくも過去3度、大火で街の大半が灰塵に帰している。しかし都度禍いを転じて新たな発展の礎とした。3度の大火災とその後の市街地改造の概要を以下に記す。
○ 明暦18(1657)年 明暦の大火・・・延焼防止のための道路拡幅、広小路の設置、橋の増設、
吉原の浅草への移転
○ 大正12(1923)年 関東大震災・・・震災復興区画整理・道路の拡幅整備(昭和通り開通)、浜町公園の整備
各建物を耐火建物として再建、魚河岸の築地への移転
昭和通り開通は都心道路交通ネットワークにおいて大きな意義があるが
日本橋地区にとっては東西の分断というデメリットも生じた。日本橋の
目玉的存在「魚河岸」の地区外転出も短期的には損失であった。
なお同時期に日本初の地下鉄※が開業している。
※昭和2(1927)年 東京地下鉄道・浅草~上野間開業。日本橋地区への延伸は、その5年後。
○ 昭和20(1945)年 東京大空襲・・・震災復興で市街地の骨格が整えられていた都心部は、戦災復興の際には
面的整備(土地区画整理事業)の対象にはならず、主として民間資本に
よる建物再建で次第に往時の賑わいを取り戻した。
日本橋地区では日本銀行、三井本館、三越本館など、戦災を生き延びた名建築も多い。それらが今日、歴史的景観要素として地区の魅力演出に一役買っている。
日本橋地区では上述のような400有余年の歴史・伝統の蓄積が、現代の都市づくりに複合的に活かされている。ここでは先ず、近年の当地区での街区再編を伴う大規模プロジェクトの分布を見てみよう。
図示した以外にも個別ビルの共同化や建替え計画があり、日本橋地区では広い範囲で地区更新が進展中である。しかし多くのプロジェクトで、活用すべき資産は残し、歴史を受け継ぎながら新たな魅力を加えて行こうとしている。現代の都市開発に、日本橋の場所の固有性がどのように反映されているか、実例として以下に日本橋室町東地区を採り上げる。
本件は都市再生特別措置法に基づく特区プロジェクトで、5街区・約1.8ヘクタールがまとめて指定され、事業者も複数に及ぶ。事業の狙いは3点に要約される。
① 賑わい拠点整備:業務・商業エリアに相応しい、地域活力の再活性化
② 通りの景観形成:歴史的資源を活かした、連続的な景観づくり
③ 公共空間整備:既存の都市基盤の活用・更新・再生と、新たな機能付与
コレド室町(2010年)に続き本年3月、コレド室町2・3が開業した。各ビルの店舗フロアーに老舗が複数出店しているのは、上記①に関わる分かりやすい日本橋の固有性活用だが、高層部で国際水準のしっかりしたオフィス空間を提供することも、CBDの一角としての日本橋の伝統継承という固有性活用である。
上記②の景観形成に関しては、当プロジェクト地区内に保存・活用すべき歴史的建造物があったわけではない。しかし、中央通り対面で保存・再生・活用されている建物群のファサードとの調和を考えた点が注目される。即ち歴史的表情線(地上27~31m)を尊重した外観デザインで、通り両側の沿道景観を一段と洗練されたものにした。 同時に本プロジェクトは、日銀本店等を含むより広域の景観重点地区指定と連携し、歴史景観の面的保全・再生を制度的に担保している。また、区画街路においても電線地中化や石畳様の路面整備など併用し、プロジェクト地区内外に江戸風情の感じられる界隈づくりを波及させている。
このような事業企画と空間整備を確実に機能させる施策が上記③だ。昭和7(1932)年開業の地下鉄銀座線・三越前駅、そのコンコースと連続的に地下公共広場を整備し、駅前広場機能と防災拠点機能を充実させた。コレド室町は地下階で公共広場に開かれた顔を作り、訪れる人の流れを街区の奥へ、更に地区周辺へと誘引している。
室町東地区の地下広場・通路は公道の地下に整備された公の施設。これと民間のビルが連携して都市活動をサポートする点は特区制度の躍如たるところだが、もとより官民の効果的連携は当地区まちづくりの特徴でもある。次節ではその辺りにも触れて行く。